当時、NECに続くのはNEC陣営のエプソンを除けば、富士通、東芝
といったところです。メインフレームを持つ富士通、日立は端末用に
それなりに台数が見込めるので独自仕様のモデル、FMRやB16/32と
いったモデルを出していました。
PC-9801に対抗するのではラチがあかないと言って、PC-9801互換
に乗り出したメーカーがありました。エプソン、シャープ、プロサイド、
AST等です。このうち成功したのはエプソンだけです。
【エプソン】
http://homepage1.nifty.com/SR50/tyoukanji/nenpyou/Cnenpyou6.htm
遠鏡堂の電子年表1887年〜1990年
87/11 NECとエプソン、互換機問題で和解。
エプソンはPC-9801互換機で勝負しました。NECが手薄だったラップ
トップを中心にモデルを出しました。最初のモデル0は裁判の結果、
出荷されずにお蔵入りしましたが、以後のモデルはPC-9801と競え
るモデルを出しました。NECがエプソンに対抗してエプソンチェックと
いう仕組みを設けた、と聞いています。エプソンは1996年にPC-9801
互換路線から撤退し、DOS/V陣営に鞍替えします。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/5860/basic.html
エプソン V.S. 日電 著作権問題の全貌
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/5634/t82A6_0006.html#1717
真・コンピュータ用語辞典 エプソンチェック
http://wdic.asuka.net/?title=%A5%A8%A5%D7%A5%BD%A5%F3%A5%C1%A5%A7%A5%C3%A5%AF
通信用語の基礎知識 エプソンチェック
http://www.sol.dti.ne.jp/~osg/history/japan/3-3.html
エプソンの乱
【シャープ】
8bit機の強豪、シャープも16bit機では苦戦していました。AX陣営に
参加する前に、クリーンPCの伝統を生かしたのか、エミュレーターに
よるPC-9801ソフト互換を打ち出します。ただ、エミュレーションは
速度が遅く、また、ハードウェアを直接叩くアプリケーションは使えま
せんでした。
http://homepage1.nifty.com/SR50/tyoukanji/nenpyou/Cnenpyou6.htm
遠鏡堂の電子年表1887年〜1990年
87/5 シャープ、MZ2861を発売。エミュレーションでPC98との互換を図る。
http://www.sol.dti.ne.jp/~osg/history/japan/3-3.html
エプソンの乱
シャープのMZ-2861は、ソフトウェアエミュレートによる互換方式を採用した。ソフト的に
バーチャルなPC-98環境を用意したのだ。これにより、PC-98用ソフトの80%程度が動作
可能であったという。だが、ソフトエミュレートであるがゆえに、アプリケーション動作速度
は遅くなる、PC-98のハードを直接叩くようなアプリケーションは動作しない、といった問題が..
【プロサイド】
PC-9801の前に表計算ソフトPIPSで一世を風靡したソードを株式
公開寸前に業績悪化で東芝に売り渡した椎名氏が再起して起した
ベンチャー企業です。PC/AT互換機も売っていましたが、PC-9801
互換機も一時やっていたようです。
http://homepage1.nifty.com/SR50/tyoukanji/nenpyou/Cnenpyou6.htm
遠鏡堂の電子年表1887年〜1990年
87/9 プロサイド、PC98・PCATの両方に互換性を持つ「PVS −2」発売。
http://www.kaigisho.ne.jp/literacy/midic/data/k19/k19154.htm
デジタル環境の発達史1987年
プロサイド、PC/AT、NEC/PC-98の双方互換機PC-VS2発表
プロサイドは、この後、AXに参加しました。PONAXというシステムも
売っていたのは当時のカタログで見ました。概要は「さらば愛しの
DOS/V」に出ていましたので、後で補足しておきます。
【AST】
ASTのPC-9801とPC/AT、デュアル互換のマシンのニュースは
当時の日米貿易摩擦もあって、話題になりました。その割には
ニュースサイトにも情報がありません。結局発売前に撤退して
しまいました。大山鳴動ネズミ一匹でした。トムキャッツコンピュ
ータは元になった仕組みを開発した会社だと思います。
http://www.tomcat-group.co.jp/profile.htm
トムキャッツプロダクト株式会社
1984年12月 世界最初の IBMパーソナルコンピュータ PC/AT 互換機を開発
1986年1月 日本最初の日本電気パーソナルコンピュータ PC-9801 互換機を開発。
その後セイコーエプソンなど各メーカーに技術ノウハウを供与。
1988年5月 複数の異機種パソコンとの互換を可能にする仮想システムロジック(VSL)を開発。
その後米国パソコンメーカー ASTリサーチ、セイコーグループ精工舎などへ技術
ライセンス供与。 仮想システムロジック (VSL) 用 LSI
を富士通にて製作。
1991年7月 DOS/V マシン (PC/AT) 上で PC-9801 のソフトが利用可能になる仮想
98 システム(Virtual-98)を開発。
1995年11月 システムの仕様に依存せず 3モード制御可能なWINDOWS 95 対応 3.5 インチ FDDを開発。
http://www.kaigisho.ne.jp/literacy/midic/data/k19/k19157.htm
デジタル環境の発達史1990年
6月 ASTリサーチ社(米)、NEC・IBM互換パソコンを日本で発売
http://pcweb.mycom.co.jp/column/business/business029.html
米国流ダイレクト販売を日本に定着させたい - 野渡龍プリントライフ株式会社社長(3)
その勢いを借りて、米国本社は日本市場に向けて、NECとIBMの双方のソフトが動く互換機の
発売を決定する。当時、日本ではNECのパソコンが4分の3のシェアを占め、エプソンの互換機
を加えると、実に85%の市場占有率を誇っていた。まさにガリバー型の寡占度である。そこに楔
を打ち込もうというのだ。日本のパソコン業界は緊張した。そのあおりで、日本のあるメーカーと
OEM契約が成立寸前だったASTリサーチのNEC/IBM互換機は、直前で契約を破棄され、生産の
見通しが立たなくなる。恐らく、日本特有の業界秩序維持の圧力があったのであろう。その真相は
不明だが、OEM契約ができなかったことで、結局、ASTリサーチ・ジャパンの社長は辞めてしまうのである。
PC-9801互換ではなく、独自で市場を開いていったメーカーもあります。
【東芝】
東芝は1986年のJ3100B11から独自の日本語化を進めました。
英語OSと日本語OSが一台で行き来できる仕組みを作り、自分で
端末通信用ソフトを揃え、企業向けの省スペースのラップトップ
パソコンで地歩を固めました。そして、1989/06のDynaBook発売で
一気にNECに対抗する勢力のトップにのし上がります。
「さらば愛しのDOS/V」の山口真也氏の「The High Cost Windows
OSの変遷−DOS、DOS/VそしてWindowsへ」によれば、東芝の日
本語化の仕方は、「漢字ROMこそ備えていたものの、基本的には
CGA(640X200ドット)をデュアルスキャンした640X400ドットのビット
マップ画面に、漢字ROMから読み出したデータをグラフィックとして
描画することにより漢字表示を実現していた。表示部分をソフトウェ
アに任せるという原理は、のちのDOS/Vと大差のないものである」
とあります。J3100はCHGSYSで区画が分かれた日英両モードを
自由に行き来できました。
【富士通】
富士通は1987年に松下と共同戦線を組みます。また1989年から
個人向けに(結果的には時代を先取りし過ぎたマシン)FM-TOWNS
を投入し、PC98追撃を開始します。TOWNSは教育市場以外では
あまり普及せず、1993年の廉価版ゲーム機FM TOWNS マーティで
痛手を負いました。
http://www.kaigisho.ne.jp/literacy/midic/data/k19/k19157.htm
デジタル環境の発達史1990年
10月 富士通、1kg以下のパソコンFMR-CARDを発売
【日本IBM】
IBMが日本市場に米のPC/ATと互換性の無い24dot表示の高解像度、
高価格の独自仕様のマシン、マルチステーション5550で参入したのが
1983年です。1987年に米IBMのPS/2とほぼ同一の仕様のPS/55に
切り替えた後も、高級路線で独自の道を行きました。オフコンや汎用機
の端末で一定の量が見込めましたから、それも可能でした。私の会社
ではPS/55が最高で100台近く同時稼動していた頃がありました。今
思うと膨大な金額ですね。一台数十万円は最低しましたから。周辺機器
にも純正パーツを中心にかなり投資しました。
IBMは1984年に始めたJXという個人向けパソコンで痛手を負ったため、
個人向けからは事実上撤退していました。このJXの日本語化は日本語
表示のハードウェアがカートリッジ化されていて、カートリッジを交換する
ことで英語モードも使える、初のバイリンガルOSマシンだった、と前述の
山口氏の記事に出ています。一度撤退した個人向け市場に対し、IBMは
1988年から個人向けモデルのパイロット販売を新学社と組んで行うなど、
再参入の準備を進めていました。そして1989年に高解像度を全面に押し
出したPS/55Zを発売します。しかし、高価格が災いして台数はあまり伸び
なかったようです。DOS/VとWin3.0の発表で、JDOSによる24ドット高品
質表示よりも、XGAによる高解像度(1024X768)を強調した売り方に変わっ
ていきます。主力のマシンも5530ZからDOS/Vのリファレンスモデル、
5510Z/S等になります。
Never Forget AX PC へ
大勢集まってみたものの、一向に普及しなかったAX陣営を見てみましょう。
【AX陣営】
富士通、東芝、IBMがそれぞれ独自のやり方でPC98と戦っていた間、
AXは何をしていたのでしょう。きつい言い方をすれば、ビジネス向けの
少ないけれど安定した市場で細々とやっていただけ、だった気がします。
386時代になってモデルだけは次々に発表されるものの、実物が見え
ない影の薄い存在、それがAXでした。ただ、ソニーのQuater-Lは比較
的、広告に力を入れていたかもしれません。ちょっと記憶に名前が残っ
ていますので。
【キヤノン】
変わったところではキヤノンが挙げられます。キヤノンは当時マックの
ディストリビューターをしていたようですが(MAC関係は素人なのでよく
判りませんが、01ショップとか覗いたことがあります)AX仕様のマシンも
出していました。なかでも特筆すべきは、1987/11に出したNaviという
名前のパソコンです。これは電話とFAX、プリンターの機能が一体になっ
た黒い小さなマシンです。小型のテレビのようなデザインで画面の左に
受話器、キーボードはワイヤレス、本体の上から紙が排紙されるという
弁慶の七つ道具のようなモデルでした。画面は今のWindowsのような
グラフィカルなアイコンが表示されており、ペンで操作できるようになって
いました。ただ、仕様が独自だったようでWindowsやMACのようにソフト
ハウスがアプリケーションを追加できるようなものではなかったようです。
Naviについてはあまりにも資料がありません。「愛しのDOS/V」の青波子
氏の「The Long Goodbye 世紀末、パソコンはこうなる 「マルチメディア
指向」という"パンドラの函"を開けたPCの自壊作用が始まる・・・・・」という
記事に少し紹介されているのを見つけました。氏は記事中でNaviを絶賛
していますが、同時に当時のCPUでは、と冷静な見方もしています。ただ、
結果として「Navi」のコンセプトを超えるものがあっただろうか?と問いかけ
マルチメディア領域の多くを家電業界が奪回する・・・・という章で結んで
います。現在のVAIOの興隆を予言していたかのような記事でした。
恒例の樹形図を書いてみました
1982-1983-1984-1985-1986-1987-1988-1989-1990-1991- ---- -------
- -
NEC PC98---------------------VM----------------------------------PC-98NX
EPSON PC-286-----98互換路線-------------+
富士通----------FM16β---------FMR-------------------------------|
TOWNS----------------|
東芝 J3100-----------------------------------| OADGへの合流は
DynaBook--------------| 時期に幅があります
AX AX-----------------------+
↓
日本IBM 5550-----------------PS/55---------------DOS/V-+-OADG---PC/AT互換機陣営
JX---
Never Forget AX PC へ
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