MCAはまだハードウェアメーカーがパソコンの規格について影響力を 持っていた頃のIBMの独自技術です。PC/ATクローンマシーンを駆逐 するために登場した新しい拡張バスの規格です。マイクロ・チャネル と呼びます。従来との互換性が無い代わりに転送速度やセットアップ の簡易性に優れた拡張バスでした。ThinkPadの前身のPS/55noteの ハイエンドモデルにも搭載されるなど、IBMの技術の象徴でした。 |
不定期コラム Vol.515 2002/01/03作成 |
この記事の出展はAll about ThinkPadの没原稿です。作成は1997/11です。 もうMCAの事が判るユーザーも少ないことでしょう。私もあの当時の MCAの牙城、NIFTY FIBMJ (4)の会議室を離れてかなり経ちますので 現在のMCAに関しては離島に流された「キャストアウェイ」状態です。 記憶が残っているうちにWeb上に留めておきましょう。MCA系の情報は 少ないですし。 では始めましょう。 |
現在、IBMの携帯パソコンは日本および世界を含めてThinkPadシリーズだけですが、 1992年秋以前は日本のみに販売を限定したPS/55noteというシリーズが発売されて いました。PS/55noteというのは、PS/55というデスクトップモデルのシリーズのノート ブック版でした。では、このPS/55とはどんなシリーズのマシンだったのか、IBMの デスクトップ製品の歴史とPS/55noteシリーズが生まれる1991年3月以前の状況など について簡単にまとめておきましょう。 |
○IBM PC/AT 現在のPC/AT互換機に通ずるIntel社のCPUとMicrosoftが関与したOS(IBMではPC DOSと 呼んでいます)を搭載したマシンが登場したのは、米IBMが1981年に発売したIBM PCから です。IBM PCはCPUに内部16ビット、外部8ビットのi8088というCPUを積んだモノクロマシン でした。 IBM PCは、その後、ハードディスクとカラーディスプレイ(CGA)とHDDが利用可能でスロットが 追加されたIBM PC/XT(1983年)、CPUにi80286、16ビット拡張バス、ビデオにEGAを搭載した IBM PC/AT(1984年)という形で発展していきます。DOS/Vマシンといわれる「PC/AT互換機」は この「IBM PC/AT」をもとに進化してきたものです。 IBM PC/XTが発表された頃(1983年)、詳細はわからないのですが、IBMからポータブルパソコン が発表されたようです。現在の携帯型パソコンに関連するような要素があったのかどうかはわかり ません。この件はこういう話が有ったよ、程度で留めておきます。 ちなみに、日本でPC/AT互換機の条件としてあげられてきたVGAは、IBMがPC/ATのISAバスとは 互換性のないMCA(マイクロ・チャネル・アーキテクチャ)という拡張バスを採用して設計を一新した PS/2から搭載されたものです。 つまり、PC/AT互換機のベースとなったと考えられているIBM PC/ATからではないということです。 現在では、CPUはPentiumやPentium PRO、拡張バスはPCI/ISAですし、ビデオもSVGA(Super VGA、 800×600ドット)やXGA(1024×768ドット)になっていますし、発売当時のIBM PC/ATとは比べもの にならないほど進化しています。しかし、今でもISAバス(ATバス)とVGAというのがPC/AT換機を 構成する最低限の用件となっているようです。 注)CGA(Color Graphics Adapter) EGA(Enhanced Graphics Adapter) VGA(Video Graphics Array) XGA(eXtended Graphics Array) ISA(Industry Standard Architecture) 一方、日本ではPC/ATとは別の系統が発展していくことになります。 |
○マルチステーション5550シリーズ 日本アイ・ビー・エムは、いわずと知れた汎用機(大型コンピュータ)メーカーです。日本アイ・ビー・ エムの手によって最初に登場したパソコンは1983年のマルチステーション5550というシリーズでした。 故渥美清さんを使ったCMを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。このシリーズは「一台三役」 というのが謳い文句で、ホスト(大型コンピュータ)端末、ワープロ(文書プログラム)、パソコン(表計算 のMultiplanや開発言語のBASIC、APL)という3つの機能を持っていました。ワープロ機能は、登場当時 はDOSで動くものではなく、ハードディスクにDOSの区画(JPC)とは別の区画を設けて動かす「文書 プログラム(JWP)」というものでした。これはのちに「DOS文書プログラム」というDOS上で動くワープロ ソフトに進化しました。IBMの汎用コンピュータを使っている会社ではワープロとして、この「DOS文書 プログラム」が標準的に使われたケースがあったようです。 モデルとしては、標準的な位置付けの5550、上位機種の5560、下位機種の5540、AS400という オフコン端末の5530というラインナップがあり、各々の差は筐体の違い(イコール拡張性の差)でした。 発売当初の筐体はデスクサイド型というか、サイコロのような形をしており、本体正面に5.25インチの フロッピーディスクドライブ(FDD)が縦に1〜3列並んでいました。FDDの数はハードディスクの有無に よって違いました。これは1983年の5550Aから1986年の5550/5560J/Kモデルまで続きました。 1985年に登場した5540Eからデスクトップ型の筐体が登場し、1987年登場のデスクトップ型5550M/P モデルでこちらが主力に変わりました。 なお、拡張性重視のユーザーのために、サイコロ型の筐体のマシンも5560M/Pモデル(1987年)として 残されました。他に5530H/Gというピザボックス型のスリムな薄形筐体のマシンもありました。 各機種にはモノクロモデルとカラーモデルがありました。ビデオカード以外の仕様は同じで、モデル名 には連続したアルファベットの名前がつけられていました。筆者がこれらのマシンを現役で使っていた 頃は、G/H、J/K、M/P(いずれも前者がモノクロモデル)という感じでCPUや漢字フォントカードの有無 といった仕様の差を表していました。 これらのモデルではビデオカードを交換することはできませんでした。このマルチステーション5550 シリーズは、日本アイ・ビー・エムの独自規格を採用していたため、海外のIBM PC/ATとは互換性が ありませんでした。 拡張カードはPC/ATのISAバス用カードの半分の面積という小型のものでしたし、パラレルポートは セントロニクスの36ピンメス、シリアル(RS232C)ポートも後継のPS/55シリーズやPC/AT互換機とは 逆のメスでした。CRTポートも2列15ピンの独自のものでした。プリンタも5550対応のいわゆる旧型 プリンタは、ランドコンピューターという会社から出ていた特殊な切替機を使わないとPS/55でさえ 使えないものでした。キーボードコネクタだけはショップブランドのPC/AT互換機が採用している AT用(DIN5ピン)のコネクタと同じ形状をしていました。 マルチステーション5550からMCA拡張バス搭載のPS/55へは、ソフトウェア的には動作するOSが KDOSなのか、JDOSなのか(MCA用のKDOSも用意されていましたが)だけの違いでアプリケーション の動作に関する互換性は高かったのですが、ハードウェアのほうは周辺機器を含めて互換性は 断たれていました。 CPUは、i8086 8MHzからスタートし、主力モデルには1985年にi80286 10MHzが搭載され ました。後継のMCA搭載PS/55シリーズは、i80386SX以上のいわゆる32ビットCPUを搭載し ており、5550系とPS/55系を明確に世代分けすることができました。 グラフィック面ではモノクロモデルは白黒2階調、カラーモデルは64色中16色中16色同 時表示でした。最初から日本語をきれいに表示することにこだわった24ドット表示(DOS/Vは 16ドット表示)が可能で、画面の解像度は今でいうXGAサイズ(1024×768)でした。 日本語表示は、当時のCPUの能力としては当然というか、NECのPC-98シリーズと同様のフ ォントROMを用いたやり方でした。しかし、フォントROMはマザーボード上にあるのではなく、 拡張バスに漢字フォントカードを装着して使うようになっていた点がPC-98シリーズとは 違っていました。 なお、比較的短期間(1985年)で販売が打ち切られましたが、5550C/D、55540Eという 16ドットフォントモデルもありました。このモデルの画面の解像度は、VGA(640×480) ではなく、720×512ドットという独自規格でした。この規格は、1987年に登場したラップ トップモデル5535Mで再度使われることになります。 マルチステーション5550シリーズは、1987年に米IBMで「PS/2」という新しいシリーズが投入 されたのに連動して、シリーズ名を「PS/55」と改めました。マルチステーション5550系の モデルはMCAモデルのPS/55が投入されるにつれ、徐々に販売が打ち切られていきますが、 ラップトップパソコンの5535Mに代表される一部のモデルは最終的には1991年1月に5550系 の販売が終了するまで並売されました。 マルチステーション5550では5.25インチFDDが長く主流でしたが、PS/55にシリーズ名が 変わった後のモデルからデスクトップモデルにも本体に3.5インチFDDを持つモデル (55530G/H、5540M/P)が登場しました。ラップトップの5535Mは、言うまでもなく3.5インチ FDDでした。端末用途の5530G/HやCPUが8086のモデルのFDDは2DD専用でした。 普通、「PS/55」という場合、マルチステーション5550系のモデルは指しません。IBMの マシンではマシンの正面などにモデル名を表すプレートがあります。たとえば、 「55xx-Xxx-99-99999」というモデルがあれば、"X"にあたるアルファベットがモデル名を 示します。その流れでいえば、下記のモデルがマルチステーション5550の系統になります。 Table マルチステーション5550の系統 機種 モデル 5530 5530 H/G 5535 5535 M 5540 5540 B/E/J/K/M/P 5550 5550 A〜E/G/H/J/K/M/P 5560 5560 G/H/J/K/M/P 1986年に筆者の会社で購入した5550は本体価格は1,530,000円でした。この価格が 示すとおり、主な販路は汎用機ユーザーである大企業でした。当時はパソコンではなく オフィスワークステーションと呼ばれていましたが、これも価格からすればそういうもの だったのかもしれません。 |
○IBM JX シリーズ 1983年に始まったマルチステーション5550は1987年にシリーズ名が米国のPS/2と合 わせてPS/55に変わります。5550やPS/55は企業向けで、日本IBMが個人向け市場に マシンを投入するのは1989年11月です。この長いブランクを作る原因となったのが、 これから紹介するIBM JXシリーズの失敗です。 では、日本IBMの個人向け市場との関わりの出発点であるIBM JXシリーズについて 簡単に説明しましょう。 1983年に日本アイ・ビー・エムは、企業向け市場に向けてマルチステーション5550を 投入しました。これに対し、1981年にIBM PCを発売してパソコン事業で日本より先行 していた米IBMは、この年の夏に個人市場向けマシンとしてIBM PC Jrを発売しました。 これはIBM PCをベースにしていましたが、IBM PC用のオプションボードが使えなかっ たり、IBM PCと同じCGAながらBIOSの一部が削除されていて動作するアプリケーション が限られるなど、IBM PCとの互換性の低さが指摘されていました。おまけに新しく採用 したキーボードのタッチも嫌われてモデル寿命は短かったと聞いています。 このIBM PC Jrをベースにして日本アイ・ビー・エムが独自の日本語化を行って1984年 にコンシューマ市場に投入したのがIBM JXです。コンピュータの世界とはまったく違う 歌手、森進一をCMに起用してコンシューマ市場に打って出たわけですが、結果的には 全く売れませんでした。その結果、日本アイ・ビー・エムはコンシューマ市場には長く 挑戦できないほどのダメージを受けたと聞いています。 IBM JX(型番は5511)のCPUは内部16ビット、外部8ビットのi8088 4.44MHzで、RAM 256KBytes、VRAM 63KBytes、3.5インチFDD×4(JX4)といったスペックでした。当時は 3.5インチメディアのソフトも少なく、また、デスクトップモデルの5550のソフトとも互換が なかったため、結果的に1987年に最上位機種のJX5を除いて販売が打ち切られました。 ハードウェア的にも、IBM PC Jr互換のはずが拡張ボードのソケットがIBM PC Jrとは 違った独自の仕様のものだったというような問題がありました。日本アイ・ビー・エムの 個人向け市場への挑戦は、1988年の新学社向けパイロットモデルPS/55Z 5530Z(286) とその結果にもとづく1989年のPS/55Z 5530Z-SX(5530S)による再挑戦まで潜行する ことになります。 |