プリンターと私 その2
不定期コラム Vol.28
2000/05/16
前回はプリンター切替機を駆使したプリンター共用の話をしました。
今回はネットワーク導入によるプリンター共有の話です。
プリンターのネットワーク化のいきさつはひょんなところ
からでした。1993年冬、当時NIFTY FIBMNEW MES(20)Cat's
Eyeというフリートーク系の会議室にはまっていて、そのオ
フ会でネットワーク構築等をやっている独立系の会社の営業
支援の人間と知合ったところからです。すぐに下見に来ても
らいました。また、ちょうど一部の部署から情報共有化のニ
ーズが出てきたため、やっかいな予算取りは言いいだしっ
ぺの部署に押し付け、当時としては結構贅沢な見積もりを
取って、ファイルとプリンターの共有が始まりました。
その構成はNetWare3.0JをDECのミラーリングのHDD 1GBを
装備したPentiunm-60MHzのサーバー、管理用としてHP Open
Viewというソフトを導入、HUBはHPのインテリジェントな
HUB、プリンターはネットワークボードを内蔵したEPSON
LP-9000、クライアントPCはIBM PS/55をDOS/V+WIN31、TP
330Cs,IBM PS/Vといったものでした。
EPSON LP-9000は頑丈なプリンターで、リース期間があけるま
でに2台ともネットワークボードがいかれただけで済みました。
もっとも、ネットワークインターフェース(I/F)が故障を体験した
せいで、これ以降、プリンター内蔵のネットワークI/Fは避けて
外付けのプリンターサーバーを使うことになります。理由は障害
の時に予備機への換装が容易ということです。他所から使用
頻度が低いものをもってきて、設置するだけで済みますので。
プリンター内蔵のI/Fの場合、再度MACアドレスとか色々関係
してきそうなので面倒です。EPSONは当時首都圏には調布ぐら
いにしかサービスセンターがなく、そこから来ていたために迅速
な修理が期待できず、最初の2台以外はDTP用を除けばEPSON
は買っていません。もっともサービス体制は最近、少し改善され
たようです。
DOS/WIN31+NetWareという環境ではDOSのFEP(かな漢字変換)
はまともに動作せず、ネットワーク化を境に徐々にDOSのアプリ
ケーションからWindows上のアプリケーションへの移行が始まり
ます。それでもLotus1-2-3はしぶとく生き残り、ネットワークプリ
ンターにLPT1といったプリンタポートを割り当てる作業がWIN95
時代になってもしばらくは必要でした。
この後、続々とプリンター共有を名目にショップブランド
(Q社)のサーバーを使うことでコスト削減をしながら、部門
LAN構築を行いました。これらの部門LANでは専らCANON LBP
-A304/309といった当時の高速機が使われました。プリンタ
ー接続は最初のEPSONを除けば、全てHPのJetDirect/同Exと
いうプリンターサーバー経由でした。一時はIntelの製品も
使いましたがメンテナンスに難があり、HPだけになりました。
HPにした決め手はNTサーバーにほぼ標準という位置付けの
ためで、また、JetAdminというユーテリティも初心者に判
り易いものでした。
こうして少しずつ構築していったネットワーク化ですが、
PS/55をJDOSというOSで使う部署がネックになりました。
ホストからの印刷がLPT1に有無を言わさず流れるためです。
結局、この部署(ざっと50台)はネットワーク化でファイル
共有はしましたが、プリンターはモジュラーケーブル式の
プリンターパプリコンIIIを数十台買って、それでローカル
接続にしました。
PS/55については、JDOS環境ではネットに接続せず、DOS/V
+WIN31環境でNetworkに接続という環境でした。プリンターは
当時、ホストコンピュータとの接続用途が多かったため、
CASIO CP-3250/3500/3500II、OEM製品のMEMOREX 2618/
2628等が主流でした。これらCASIOのLBPはLotus1-2-3の表
の罫線の印刷が特に遅く、相当クレームが届きました。
これに対しては、徐々にホスト接続端末を減らすか、ホストの
使用目的をファイルのダウンロードだけにしてもらい、PS/55
エミュレーターを使わないCANONのLIPS3系のマシンに徐々に
変えていきました。
JDOSは1995年のWIN95発売と共に徐々にフェードアウトして
いき、PS/55自体もシリーズが終了となりました。しかし、
DOS環境を使用したアプリケーションは最終的にはY2Kで旧型
PCをほとんど入れかえるまで細々と残り続けます。PS/55が
WIN9xマシンにかなり切り替わった頃を見計らって、残りの
部署もHP JetDirectを使ったネットワークプリンター化に
踏み切りました。
ネットワークOSも1995年頃から新規の案件はNetwareではなく
WindowsNTで構築するようになってきました。NetWareから切り
替えたのは、何と言っても価格です。バージョンアップに要
する費用より新規にNTを入れた方が安かったこと、ファイルと
プリンター共有が中心でアプリケーションは動いておらず、
それほどミッションクリティカルな用途に使ってなかった事等
が挙げられます。赤箱(Novell NetWare)の凋落はすさまじい
ものがありました。今思えば、高いシェアにあぐらをかいた
高価格維持戦略の失敗が要因だと思います。研修費用もめちゃ
くちゃ高額だった記憶があります。
プリンターも速度が重視され始めたため、当時最新鋭だった
CANON LBP-730を大量に導入しました。LBP-730はLIPS4を搭
載したモデルで、クライアントがLIPS3の設定のままでも何とか
印刷できたこと、従来より高速、何よりオンデマンドで印刷
するため、待機時の電力消費が低かったのに惹かれました。
その前のA304/309といったLBPは常に何分おきかに印刷命令
の有無にかかわらずワーンと暖気のために唸っていました。
プリンターはこの頃もしつこくRICOHの売りこみがあり、NX-
100/110あたりも試験導入しました。結局プリンターポートが
リコーモードと言う変なのをひきづっているせいか、うまく
JetDirectやパプリコンIIIで動作せず、早々にお蔵入りに
なりました。プリンターの状態検出がうまくいかなかった
ようなんです。
1996年の夏になって、あちこちでインターネットをモデムで
繋いで利用する事例が増えてきました。ぼちぼちインターネッ
トをLANで共用できる環境にいれようか、と言い出した頃、大
事件が起こりました。今までネットワーク構築を頼んでいた業
者がグループ外の業務請負から撤退してしまったのです。
その時引き継いでもらったのが、現在でも使っている業者です。
当時の担当者の主だった者はあちこちに転職してしまいました。
独立系企業に頼むと小回りは効きますが、たまにこういうケー
スにも遭遇します。でも個人的には小回りが効くほうを好んで
いますので、要領が悪く機転が利かない汎用機メーカーの担当
者を使う気にはなりません。組織で営業って言ったって最終的
には営業一人一人の質です。引き継いでくれた企業のレベルか
らすれば、最初の企業はやはりアマチュアレベルだったのかも
しれません。それなりに二人三脚ではやっていたのですが。
当時で200台のクライアントPCがざっと10台程度の部門LAN用
サーバーに分かれて繋がり、各々の部門LANが分立、担当者は
去り全く新しい業者とやるしかない、という状態で1997年を
迎えることになります。
次回はインターネット接続、全社LAN構築について触れます。
時期の詳しい流れは過去の発注書を調べればでてくると思いま
すが、現時点では記憶に頼ったかなりアバウトなもので書いて
います。いずれ時間がある時に検証するつもりですが。