プリンターと私 その1
不定期コラム Vol.18-1
2000/04/28
ここのところ、プリンターとのトラブルが続いているため
気晴らしに、平成の歩みとともに会社のPC部門を担当して
きた私が今までに携わってきたプリンター遍歴について
何回かに分けて述べることにします。
特殊IBM的環境との戦い
私が自分の部署の担当を始めた当時、プリンターはドット
プリンターでした。パソコンはIBMのマルチステーション
5550だったため、プリンターもIBM5577F01/B01でした。他
にもカラープリンターの5563H02というのもありました。15"
連続帳票の印刷が多かったせいか、5575ではなくて重戦車
のようなヘビーデューティの5577がしばらく続きます。
パソコン以前のホスト端末3277/3278用にキヤノンのLBP10
TKという液体のインクを使う机一個分の大きさのものもあり
ました。これは1982年に買ったものです。会社がホストコンピュ
ーターとの接続が多いIBM5577というプリンター環境であった
ため当時圧倒的なシェアを占めつつあったPC-PR201、ESC/P
用のプリンターが使えず、特殊IBM的環境での苦闘が続く事に
なります。
IBM流ドラスティックな切り捨てとの戦い
1987年以降、マルチステーション5550からPS/55へのシ
リーズ切り替えが行われていきます。拡張バスの変更に
伴い、基本的には従来の周辺機器は全く使えなくなった
といっていいでしょう。MCAという新しい拡張バスは設
定も楽で、それはそれで便利なものでした。ただ新規格
への切替はユーザー側に相当の負担を強いたと思います。
プリンターでは従来のプリンター(F01/B01)は新シリー
ズではそのまま使えない状態になりました。当時ランド
コンピューターから出ていた新型プリンター(F02/B02)を
エミュレートする機器をかますことで、既存資産の食い
つなぎもなんとか可能になりました。
プリンター共有化の戦い
当初は部門に一台という感じであったパソコンも徐々に
普及が進むにつれ、プリンターの共有をどうするかが
問題になってきました、パソコンの普及は個々人の机の
上に設置できるPS/55 5535M、あるいは、東芝J3100とい
うラップトップPCとLotus1-2-3/一太郎と共に加速しまし
た。PS/55がからんだプリンター共有においてはホストエ
ミュレーションからの印刷ができるプリンター切替機が
必要でした。当時これができるのはランドコンピュータの
LAP-5PS系統のものだけでした。この1:4の自動切換機は
結構高価な代物でした。この1:4の制約の結果、プリンタ
ーはPS/55系では基本的に1:4で共有することにし、それ
だけプリンターが社内にあふれるようになりました。
ランドコンピュータのSelectBoySeriesはPS/55が終焉を迎え
る1995年頃まで数年間本当によく使いました。サポートも良
かったですし。製品にはまぁ色々あって、高価なキャッシュ内
蔵のLABタイプが途中でうまくいかなくなったのに対し、廉価
版のLAPの方が長寿を保つ等、誤算は幾つかありましたが、
私のPS/55ライフはあの会社無くしては語れません。
ランドコンピュータ
http://www.landcomp.co.jp/
離れた位置にあるPCをむりやり切替機に接続するため、
当時日本にあった外資系の通販会社Inmacのパラレル接続
用10m,15mといったスペシャルケーブル、あるいは、ランド
コンピュータのプリンターエクステンダーLEX-1といった
機器を駆使したのもこの頃です。
PS/55用のプリンター557xのエミュレーションを必要と
しない東芝J3100に関しては、最初システムサポートの1:6
の切替機等も試したのですが、比較的短期間で壊れたため
当時オーエヌ電子という名前だった会社のパプリコンIと
いう1対多の切替機を導入して使うようになりました。こ
ちらのプリンターはEPSON HG-3000でエミュレーションは
ESC/Pでした。
静音化との戦い
プリンターが社内あちこちにあふれるようになると、あの
音をどうにかしろということになります。当時LBP(レーザー
ビームプリンター)があったかどうかは確認していません。
ただ、存在していたとしても非常に高価であったことは間
違いありません。この頃になるとドットプリンター5577の
使用目的は従来のホストからのデータを連続用紙に打ち出す
よりは、各種報告資料を単票(カット紙)に打ち出すのがメ
インになっていきます。ここでも壁になったのが、やはり
マイナーであったPS/55用プリンターという事でした。
まずはCANON BJ-130Jという初期のバブルジェットプリ
ンターの5575エミュレーター搭載モデルから導入を始めま
した。このモデルのケーブルは後述するように相当特殊で
特にプリンター切替機を使う場合は苦労させられました。
また印字速度が遅く、クレームが続出し、早々に引き上げ
になりました。
幸いにして何かの展示会でEPSONから出ているHG-3000に
5575エミュレーションを搭載したBS-3000というプリンターを
発見し、これを1991年頃、大量に導入することになります。
この後、CANONからBJ-330Jが登場し、これのIBM5575モデ
ルも試験的に入れてみましたが、トラブルが多く、BS-3000を
置換するまでには至りませんでした。
インクジェット以外ではEPSONのドットプリンターBM-800を
試験しました。が、印字音が大きくこれは使い物になりません
でした。海外とのやり取りが多い部所用に精工舎のドットプリ
ンターも入れたことがあります(BL-230PSとか?)が、これも
ドットプリンターだったため短い寿命で終わりました。
一太郎との格闘
当時のIBM PS/55向けの一太郎のプリンター設定ファイルは
当然ながらPS/55用のプリンターだけでした。これはIBMの
パソコンがJDOS向けからDOS/Vに変わってもしばらくはその
ままでした。ESC/PやPC PR201用のプリンター設定ファイル
を他の機種用の設定ファイル集から持ってきて色々試した
記憶があります。今はもうすっかり忘れてしまいましたが、
当時は結構必死にやった覚えがあります。DOS/V初期には
PC-PR201用プリンタドライバも出まわったりしたので、一
太郎のみならず、他のソフト(専らLotus1-2-3)でも同様の
ドタバタが続きました。
LBPとの格闘
レーザービームプリンターの導入はホスト端末のエミュレー
ターからの印刷と、HDAというホストからのデータをプリン
ターに登録してある罫線の表に合成して印刷することができ
るCASIO LCS240から始まりました。FormGと言われたそのソ
フトは担当者が転勤してしまうと誰もメンテナンスができず
結局HDA自体はそれ以後使わなくなりました。557xエミュレー
ターとしてはCASIO LCS240/224シリーズはよく出来ており、
判り易いディップスイッチ形式の操作ともあいまって、これ
も結構な台数を入れました。
LBP、CASIOで言うところのページプリンター、については
相当試行錯誤しました。PS/55用としてCASIO LCS224は
一定のシェアを築きましたが、ホスト端末以外の用途では
色々なメーカーを試すことになります。とは言え、最初は
やはり557xエミュレーションの出来を試すことから始まりま
した。
当時557xに対応していたのはIBM PAGESを搭載したIBM
5584G02、CANON LBP B406S、京セラぐらいでした。まず
はIBMを買いましたが、PAGESがよく判らず、即お倉入り
でした。次の京セラは確かL-880といった名前ではなかった
か、と思いますが当時のNIFTYで評判が良かったのでいれ
たのですが、これもユーザーインターフェイスが判りにくく、
しばらくしてお倉入りになりました。京セラはドラムが長寿命
でトナーだけ換えれば済むということで、現在は欧州でヒット
しているようですが、目先のトナー代の高さと保守体制への
不安から1台試験導入したっきりになりました。CANONは55
7xエミュレーター向けには左端余白の設定が判りにくい等で
使い物にならず、LIPSIIIと557xの自動切換え機能も営業が
言うようにはうまく動かないので、この分野では失格でした。
変わったところでは在庫処分のXEROX 4105Iというのもあり
ました。これは結構頑丈で長いこと使われました。
プリンターケーブルとの格闘
当時のLBPは各メーカーごとに変な細工がしてあったようで
IBM以外は基本的には専用のケーブルを用意しないとうまく
動かないようなものでした。CASIO LCS224用でも5550用の
16ビットマシン接続用とPS/55 MCA搭載 5551S/T/V 32ビット
マシン用のケーブルがありました。これはCANONも同様でし
た。特にLBPのみならず、バブルジェットプリンターのケー
ブルも特殊でした。特に最大の問題になったのはプリンター
切替機を通すとうまく通信できなくなるエラーでした。この
ためランドコンピュータが用意していたCASIO用、CANON用
RICOH用の特殊ケーブルを駆使し、時には他のモデル用の
ケーブルをも繋ぎ合わせたりしてピンチを切り抜けました。
こういう場合のメーカーの営業や技術屋は基本的には全く
当てにできず、頼るべきは自分だけ、という時代でした。
逆襲のCANON
557xでは失格のCANONでしたが。しかしLotus1-2-3でLIPSIII
を使うと高速に印刷できるというのが強みになって徐々に台数
が増えていきます。端末としてのパソコンではなくて、本当の
意味でのパーソナルなコンピューターとして使われ出したのが
この頃です。主力はLBP B406Sでした。
Windowsでの最初のパニック
これも昔の話で少々記憶があいまいになっています。OA(死語で
すね)化の進展に伴って増えて行ったB406Sですが、Windowsの
登場と同時に大パニックに遭いました。多分93年春頃のWIN3.1だ
ったのだと思いますが、LIPSIIIのドライバでB406Sがうまく動かな
い事態が発覚し、解決策はLIPSIIといった前のドライバで、で
と言うような問題が起きた記憶があります。これはファームウェ
アがらみのトラブルだったようで、結局急いでB406Sを後継の
B406Gに切りかえる羽目になりました。
CANON 第一次黄金期
B406Sリタイアの結果、プリンターはCANON B406Gが主流になり、
これに後に登場した高速機A304G2/309G2とのペアでプリンターが
占められる時期となりました。これが私の会社でのネットワーク
導入前の状態です。時期的にはTPを大量に入れ始めた頃なので
1993年か1994年頃ではなかったかと思います。
RICOHとの因縁
正確な日時についてはいずれ訂正するつもりです。当時の発注書
等を探し出すのが大変なのでアバウトなのですが。RICOHのプリ
ンターはSP-7/8あたりが最初です。これもPS/55エミュレーター
機能付きで入れました。しかし、PS/55エミュレーターとRPDLの
切り替えがうまくいかず、これも早々にリタイアしてしまいまし
た。特にWindowsのTrueTypeの印刷が速いという触れ込みで入れ
たのですが、グラフィック系の印刷がうまくいかず引っ込めて
しまいました。またファンの音がうるさくなる障害は最後まで
うまく直せませんでした。RICOHのプリンターはDOS/V,MACで共有
できるものを、という特殊なニーズをかかえた部署でSP-7PSが
しばらくの間生き残りましたが、本格的なDTP用MACと共にLP9000
PS2を導入したのに伴いリタイアしました。
プリンター共有との戦い 再び
OA用途向けPCの増加に伴い、プリンター切替機においてもエミュ
レーター対応機能は徐々に不用になってきました。1993年頃にな
ると1台のコントローラーで集中的に管理する切替機ではなくて、
モジュラーケーブルで数珠繋ぎにしてプリンターを共有するタイ
プのものが登場します。このタイプはアーベル(ミヨシ)や関西電
気、といった色々な製品を試しました。この手のいわゆるモジュ
ラーリンク製品では最終的に小規模な場合は関西電機の
プリンタネットワーク PNH シリーズ、大規模な場合で、オーエヌ
電子のパプリコンIIという製品に落ち着きました。製品価格は
他の会社より高めでしたが、信頼性で決めました。LAN導入前の
状態ではパプリコンIIの後継機で接続台数が8台までの代わりに
低価格化が進んだパプリコンIIIという切替機を数十台導入して
プリンターの共有を行っていました。
関西電機
http://www.kansai-elec.co.jp/
オーエヌ電子
http://www.on-tec.com/
2.ネットワーク時代へ続く
Vol.28 プリンターと私 その2